東京・大手町。高層ビルが並ぶ街の一角に、平安時代の武将を祀る小さな場所が残されている。平将門の首を供養する「将門塚」だ。ここには、塚を動かそうとすると災いが起きるという噂が長く語られてきた。
だが、首が京都から飛んできたという伝説と、関東大震災後に官庁で病人や死者が出たという話は、同じ時代の記録ではない。将門本人の歴史、首塚の成立、近代の祟り話を分けてたどると、都市の真ん中で守られ続けた場所の別の姿が見えてくる。
平将門とは何者か|940年に討たれた東国の武将
平将門は平安時代中期、関東で勢力を伸ばした武将である。一族間の争いを経て国府を攻撃し、朝廷に反抗する形となった。自ら「新皇」を称したと伝えられ、天慶三年(940年)、藤原秀郷や平貞盛らの軍勢に敗れて討死した。
その首が都へ送られ、さらされたという話が後世の首塚伝説につながる。ただし、実際の戦いの経過を伝える歴史叙述と、死後に首が空を飛んだという物語は分けなければならない。後者は超自然的な伝承であり、史実として確認された移動経路ではない。
朝廷から見れば反逆者だった将門が、東国では英雄や守護者としても語られてきたことが、後の信仰を理解する手がかりになる。人々は単に恐ろしい怨霊を避けたのではなく、強い霊威を持つ存在として将門を祀ってきた。
将門の首は本当に飛んだのか|大手町に残る伝説
千代田区の公式観光情報によれば、京都でさらされた将門の首は、なお目を動かし、故郷の東国へ飛んでいったという。落下したと伝えられる場所の一つが、現在の大手町の将門塚だ。伝説では、首は再び胴体と結びつき戦おうとしたとも語られる。
首が飛ぶという場面は、歴史上の死亡記録とは性質が異なる。地名と結びつく由来譚として読むべきもので、塚の下から将門本人の遺骨が確認されたという意味ではない。
将門塚は東京都指定の旧跡として扱われる。文化財の指定が示すのは、伝承地としての歴史的・文化的価値であり、超自然現象の実証ではない。
ハート


1307年の供養|祟りを鎮めたという僧
神田明神の案内によると、徳治二年(1307年)、時宗の僧・真教上人が将門の霊を鎮め、蓮阿弥陀仏の名を贈ったと伝えられる。その後、日輪寺が開かれ、延慶二年(1309年)には将門が神田明神に合祀されたという。
この経緯は神社や地域に伝わる信仰の歴史を説明するもので、出来事のすべてが同時代の独立した記録で確認されたわけではない。とはいえ、中世以降に将門を供養する物語が重視され、信仰の中心となっていったことを示している。
神田明神は江戸時代初めに現在地へ移り、将門塚は大手町に残った。周辺の土地利用が大きく変わっても、塚の存在は地域の記憶から消えなかった。
関東大震災後の大蔵省|近代の祟り話
現在の祟り伝説で最も知られるのは、1923年の関東大震災後の出来事だ。かつて大蔵省の敷地にあった塚の周囲が整地され、仮庁舎が建てられた。その後、関係者に病気や死が相次ぎ、将門の祟りだと噂されたという。
国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースには、民俗学者・松崎憲三の1995年の論文『塚をめぐるフォークロア』を出典として、この逸話が収録されている。記録されているのは「そのような噂が伝わった」という事実であって、病気や死の原因が祟りだったという医学的・歴史的証明ではない。
興味深いのは、同データベースが紹介する研究の中に、昭和三年(1928年)の『報知新聞』が「将門のたゝり」を恐れる役人や法要を報じたという情報もあることだ。祟りの物語は戦後に突然作られたのではなく、昭和初期の時点ですでに報道の対象になっていた可能性がある。ただし今回は新聞原紙を直接照合していない。






祟りの噂はいつ記録されたのか|1928年の鎮魂祭
「大蔵省に祟りが起きた」という話には、昭和初期の新聞報道という手がかりがある。民俗学者の松崎憲三は『塚をめぐるフォークロア』で、1928年3月27日付『東京朝日新聞』が、大蔵省の職員らによる鎮魂祭を報じたことを紹介している。
ここで重要なのは、祟りの噂が当時すでに広まり、役所の関係者による祭祀が報道されたという点だ。記事が存在することは、病気や死亡の原因が超自然的な力だったことを意味しない。新聞は当時の人々の受け止め方を知る資料として読める。
また、後年の研究が古い新聞を引用している場合、研究者の読みと新聞の原文は厳密には別の資料である。今回は新聞原紙の画像を直接照合できていないため、記事の細部は松崎の論考に基づく説明として扱う。
1940年の落雷と戦後の噂|重なった出来事
祟りの話は一度きりでは終わらなかった。国際日本文化研究センターの伝承データベースには、昭和十五年(1940年)に大蔵省本庁へ落雷があった際にも、将門塚に近いことから祟りと結びつけられ、慰霊祭が行われたという記録がある。
また、戦後に塚を整地しようとしたところ工事車両が事故を起こした、という話も広く流布している。しかし、個々の事故の日時や現場、関係者の証言を独立した一次記録で確かめないまま、細部まで確定した史実として扱うことは避けたい。
こうした噂に共通するのは、塚の周囲で何か不幸が起きると、それが将門への不敬と結びつけられる構造だ。祟りを信じる人にとっては説明となり、信じない人にとっても、塚を軽々しく扱うべきではないという社会的な規範を生み出した。
史跡としての将門塚|消えなかった場所
現在の将門塚は、平安時代の土盛りがそのまま残っているわけではない。奈良文化財研究所の文化財情報には、関東大震災後の大蔵省再建で旧来の塚が崩され、昭和四十五年(1970年)に保存会などによって現在の形に整備されたと記されている。
神田明神の2021年の発表によれば、将門塚は同年四月に第六次改修工事を終えた。塚の保存は一度限りではなく、近隣の企業や信仰関係者による継続的な取り組みとして行われている。
さらに史蹟将門塚保存会は、将門を顕彰し、その霊を慰め、塚を保存することを目的として活動している。現在の姿には、古い伝説だけでなく、近現代の人々が守り直してきた歴史も刻まれている。






2026年にも続く敬意と論争
2026年8月には、将門塚の石碑に登った動画配信者が批判を受けて謝罪したと報じられた。報道によれば、保存会は警察に相談したという。この出来事は、将門塚が現代でも単なる観光スポットではなく、信仰と歴史に関わる場所として受け止められていることを示す。
ここでも、問題を祟りの有無だけに還元する必要はない。石碑への不適切な行為は、文化財や信仰の場をどう扱うかという現実の問題である。超自然的な罰を証明しなくても、場所への敬意を考える理由は十分にある。
なぜ祟りの噂は消えないのか
将門塚の噂が長く続く背景には、複数の要素がある。平安時代の反逆者という強烈な人物像、飛ぶ首の伝説、中世の供養、官庁街で起きた不幸、そして高層ビルに囲まれて残る史跡という風景だ。
都市が新しくなるほど、その中で動かされずに残る小さな場所は特別に見える。事故や病気が起きた時、人は偶然の連続に意味を求めることがある。将門の祟りは、こうした人々の解釈が重なって受け継がれてきた伝承とも考えられる。
ただし、これは噂の伝わり方を説明する一つの見方であって、過去の人々が皆同じ理由で塚を恐れたという意味ではない。信仰、敬意、土地の歴史、好奇心が、時代ごとに異なる形で交わってきたのだろう。






まとめ|将門塚が語り継がれてきた理由
平将門は940年に討たれた歴史上の武将だ。一方、首が空を飛んだという話は伝説であり、将門塚の由来を説明する物語として伝わってきた。中世には供養の伝承が成立し、近代には大蔵省をめぐる不幸が祟りの噂と結びついた。
祟りそのものを実証する資料は確認できない。しかし、塚を守る人々がいたこと、噂が新聞や民俗学研究の対象になったこと、現在も史跡として大切にされていることは確かめられる。
将門塚の本当の謎は、超自然的な力の有無だけではない。激しく変わる東京の中心で、なぜこの場所だけは何度も守り直され、語り続けられてきたのか。その問いこそが、将門の伝説を歴史として読み解く入口になる。
参考資料
[1] 千代田区観光協会「将門塚」
[4] 国際日本文化研究センター「将門首塚,祟り」松崎憲三論文要約
[6] 神田明神「将門塚、第6次改修工事により新たな姿に」(2021年)










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