1872年12月、大西洋を航行していた一隻の帆船が発見された。
船の名前は、メアリー・セレスト号。
船体は沈んでおらず、積み荷も残されていた。それなのに、船長も、その家族も、乗組員も、誰ひとり船内にいなかった。
何が起きたのか。海賊に襲われたのか。船内で事故があったのか。それとも、乗っていた人々は自ら船を離れたのだろうか。
150年以上が過ぎた現在も、全員が船を離れた理由と、その後の行方は確定していない。
しかし、この事件にはもうひとつの謎がある。
私たちが知っている「幽霊船メアリー・セレスト号」の物語は、どこまでが事実なのだろうか。
メアリー・セレスト号とは?1872年に起きた失踪事件
メアリー・セレスト号は、アメリカ船籍の商船だった。
1872年11月7日、ニューヨークを出港。目的地はイタリアのジェノヴァで、船には工業用アルコールが積まれていた。
乗船していたのは、ベンジャミン・ブリッグズ船長、妻のサラ、幼い娘のソフィア、そして7人の乗組員。合わせて10人である。
航海の途中、船は大西洋のアゾレス諸島付近で発見される。発見したのは、同じく大西洋を航行していたデイ・グラティア号だった。
メアリー・セレスト号は帆を一部掲げたまま航行していたが、呼びかけに応答する者はいなかった。デイ・グラティア号の乗組員が船内を調べると、人の姿はなく、救命艇も見当たらなかった。
ハート


船内には航海を続けられるだけの物資が残されていた。船そのものも、すぐに沈むような状態ではなかったとされる。
それなのに、なぜ10人全員が姿を消したのか。この不可解さが、事件を長く語り継がれる海のミステリーにした。
船内には何が残されていたのか
発見されたメアリー・セレスト号には、奇妙なほど多くのものが残されていた。
船倉には1,701樽の工業用アルコール。食料と飲料水も十分にあり、乗組員の私物も船内に残っていた。
一方で、救命艇はなくなっていた。船内には浸水があり、ポンプのひとつは分解された状態だった。
航海日誌に関する最後の記録は11月25日。船が発見される約9〜10日前、アゾレス諸島のサンタマリア島付近にいたことが分かっている。
つまり、船が発見されたときには、すでにかなりの日数が経過していた。
ここで注目したいのは、船が無傷だったわけではないという点だ。
メアリー・セレスト号は航行可能な状態だったが、帆や装備には損傷があり、船内には水も入っていた。船員が船の状態に不安を抱く理由が、まったくなかったわけではないのである。
食事の途中で消えた?有名な幽霊船伝説の誤解
メアリー・セレスト号については、こんな話を聞いたことがあるかもしれない。
食卓には食べかけの料理が残され、カップにはまだ温かい飲み物が入っていた。まるで、乗組員たちが食事の途中で突然消えてしまったかのようだった――。
幽霊船の物語としては、実に印象的な場面である。
しかし、この描写は当時の調査記録に裏付けられていない。
ジブラルタルで行われた審理の証言をもとに整理された記録では、食卓に食事が用意されていた事実は確認できない。調理場も整然とした状態ではなかった。






なぜ、こうした物語が広まったのだろうか。その理由を考えるうえで、ある有名な作家の存在は欠かせない。
コナン・ドイルが広めた「もうひとつのメアリー・セレスト号」
1884年、雑誌『コーンヒル・マガジン』に、一編の短編小説が掲載された。
題名は『J・ハバクク・ジェフソンの証言』。作者は、後にシャーロック・ホームズの生みの親として知られるアーサー・コナン・ドイルだった。
この作品はメアリー・セレスト号事件を題材にしたフィクションで、架空の生存者が体験を語る形式で書かれている。
実際の船名が「Mary Celeste」であるのに対し、作品中では「Marie Celeste」という表記が使われた。
小説の内容は事実ではない。それでも、その物語は事件の知名度を高め、後世のイメージに大きな影響を与えた。






ただし、事件のすべてが小説によって作られたわけではない。乗船者10人が消えたことも、船だけが発見されたことも、現実に起きた出来事である。
その事実だけでも、十分に不可解な事件だった。
海賊か、反乱か?ジブラルタルでの調査
デイ・グラティア号の乗組員は、発見した船をジブラルタルまで運んだ。
そこで行われたのが、海難救助に関する審理である。救助した船や積み荷に対して、どれだけの報酬を認めるかを判断する手続きだったが、調査は事件そのものにも及んだ。
担当したフレデリック・ソリー=フラッドは、乗組員の反乱や殺人、救助者による不正の可能性も疑った。
だが、調査によって犯罪行為を裏付ける証拠は見つからなかった。
救助者には最終的に報酬が認められたものの、失踪の理由は解明されなかった。
ここで、ひとつの疑問が残る。もし船内で争いが起きたのであれば、なぜ大量の積み荷や物資がそのまま残されていたのだろうか。
もちろん、それだけで犯罪説を完全に否定できるわけではない。しかし、海賊や反乱によって全員が消えたとするには、確認されている状況との食い違いを説明しなければならない。
有力な説は「船を捨てるしかないと思った」こと?
近年の調査で注目されているのが、船長が沈没の危険を感じ、救命艇への退避を命じたという説である。
ここで重要になるのが、発見時に分解されていたポンプだ。
船倉に水が入っているとき、船員はポンプなどを使って浸水の程度を確認する。
ところが、メアリー・セレスト号は前の航海で石炭を運んでおり、その粉じんや修理の際のごみがポンプの機能を妨げていた可能性が指摘されている。
もし浸水量を正確に把握できなかったとしたら、どうだろう。船長は実際以上に船の状態を危険だと判断したかもしれない。
さらに、航海の途中では荒天が続いていた。航海用時計の誤差によって船の位置を誤認していた可能性も、過去の記録と海洋データを用いた調査で検討されている。
この仮説では、ブリッグズ船長がサンタマリア島付近で退避を決断したものの、その後、救命艇が船から離れてしまったと考える。
船の方は風と海流によって航行を続け、やがてデイ・グラティア号に発見された、という筋書きだ。






この説は、救命艇がなくなっていたことや、船そのものが航行可能だったことを説明しやすい。
ただし、船長が本当に退避を命じたのか、救命艇がその後どうなったのかを直接示す記録はない。有力な説明であっても、確定した真相ではないのである。
アルコールの爆発を恐れた可能性
もうひとつ、積み荷のアルコールに注目する説もある。
メアリー・セレスト号が運んでいたのは、1,701樽の工業用アルコールだった。
発見後の調査では、そのうち9樽が空になっていたことが分かっている。
アルコールの蒸気が船倉にたまり、爆発の危険を感じた乗組員が避難したのではないか――という考え方だ。
しかし、発見時に大きな爆発の痕跡があったわけではない。
また、空になっていた樽は、ほかの樽と木材の種類が異なり、液体が漏れやすかった可能性も指摘されている。
この説も、船長が退避を判断した理由として考えられるものの、直接の証拠には欠けている。
重要なのは、さまざまな仮説が存在すること自体ではない。それぞれの仮説が、実際に確認された事実をどこまで説明できるかである。
乗組員10人はどこへ消えたのか
メアリー・セレスト号から姿を消した10人は、その後も発見されなかった。
船長のブリッグズには、故郷に残してきた息子もいた。
船に乗っていたのは、単なる「謎の失踪者」ではない。それぞれに生活があり、家族がいた人々だった。
メアリー・セレスト号事件は、幽霊船の不思議な話として語られやすい。しかし、記録を読み直すと、そこにあるのは海の上で起きた重大な遭難事件でもある。






まとめ|メアリー・セレスト号の謎は解けたのか
1872年、メアリー・セレスト号は乗船者10人がいない状態で発見された。
救命艇はなくなり、船内には浸水があった。しかし、船は航行可能で、積み荷や食料も残されていた。
その後の審理でも、失踪の理由は明らかにならなかった。
現在では、船長が沈没などの危険を感じて退避を命じたという説が、状況を説明する有力な仮説として挙げられている。
一方、食べかけの料理や温かい飲み物が残されていたという有名な描写は、当時の証言に裏付けられていない。
事件の謎は、後世の創作によってさらに大きくなった部分もあるのだ。
メアリー・セレスト号が教えてくれるのは、不可解な事件ほど、事実と物語の境界が曖昧になりやすいということかもしれない。
幽霊船の伝説を取り除いても、なお残る問いがある。
なぜ、10人は航行可能な船を離れたのか。
その答えは、今も大西洋のどこかに沈んだままである。
参考資料
[1] Smithsonian Magazine, “Abandoned Ship: The Mary Celeste” (2007)
[3] Mary Celeste Research, “The Mary Celeste – Facts not Fiction”









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